昔話の鬼の正体

 

 日本全国で伝え親しまれている昔話の中でも、鬼が登場する話は数多い。昔話の主人公の定番が若く強く精悍な若者ならば、その相手として私たちが物語の敵・悪役として思い浮かべるのが鬼だろう。しかしこの昔話に登場する鬼とは一体何者なのだろうか。多くの鬼は人を食べたりと、人間に害をなし、また鬼が主人公に退治されることで大抵の物語はめでたしめでたしとなる。しかし物語の中で鬼は当然と人に悪さをするが、鬼がなぜ悪さをするのか、という理由について触れられた話は全くと言っていいほど見かけない。主人公についてはおばあさんが川で拾ってきた桃から生まれ、おじいさんおばあさんに育てられ…と生まれから成長、命名の過程までしっかりと書かれているのに対し、多くの物語では鬼がどこから来た者なのか、また鬼の名すら教えてくれないことが多い。ほとんどの物語の場合、人に害をなし、名もわからぬまま主人公に倒される鬼の正体とはなんなのか。そしてなぜ、これほど多くの物語に共通して鬼が登場するのだろうか。

 

●「鬼の石段」の鬼

 昔話は全くの無からは生まれない。何かしらの事件や、伝承や、由来があり、それが人によって口伝えられてはじめて物語となるものである。

*****の鬼が登場する民話に「鬼の石段(別名「鬼が作った石段」)」というお話がある。地域によって多少の差異はあるが、大筋の内容は以下の通りである。

 

 あるところに家畜さらったり田畑で大暴れする鬼がいた。ついには鬼が里の娘をさらって食べたりするようになったので、見かねた仏様が里人たちを救ってやろうと鬼を呼んで言った。「これから一晩のうちに百段の石の階段を作ることができれば、人をさらって食べることも許そう。だがもし出来なければただちにこの土地から出て行くように」力持ちの鬼はそれぐらいの事ならと喜んで、あっと言う間に九十九段の石段を作ってしまった。そこで仏様は慌てて、このまま石段を完成させてはならないと、雄鶏の尾羽を引っ張って無理矢理鳴かせた。鬼はもう朝が来たと勘違いして、最後の石段も放り出して一目散に逃げて行った。こうしてできた九十九段の鬼の石段は今も崩れず残っており、この地方の鬼の子孫とされる部落では、今でも絶対に鶏を飼わないという。

 

 どこの地域にも残されている普通の昔話だが、私が気になったのは最後の「鬼の子孫とされる部落では、今でも絶対に鶏を飼わない」という文章である。この文章からすると鬼の子孫が今も生きていることになるが、現在の***に鬼がいるはずもない。流れからして無論その「子孫」も人間を指しているはずだが、ならば仏に退散させられた「人に害をなす鬼」の正体とは何だったのだろうか。

 これは私の母がまた親類から聞いたというものだが、「鬼の石段」の鬼は、かつてのその土地の罪人であった、というお話がある。とあるお寺の僧が、罪人たちに免罪などの交換条件で石段を作らせ、完成間際になって約束を破って罪人を殺してしまったという。

 この話もまた人づてに伝えられた昔話の一つであり、本当に「鬼の石段」の元となった出来事であるとは限らない。しかしそう言われて物語を見ると、物語の中で約束を破って鬼を騙す、という一つの悪を犯しているのは仏様のほうであり、騙されて土地を追われた、という点では鬼は被害者であるともいえる。こうして少し視点を変えてみると、それまで見えなかった物語の裏のストーリーや、鬼の一つの正体が見えてくるのではないだろうか。そして他の昔話の鬼たちにも同じように、何かしらの由来や、原型があるのではないだろうか。「鬼の石段」のように、元となった出来事と思われる物語を手に入れることは難しいが、ただ物語の悪役としての鬼を見るのではなく、物語のストーリーから逆に鬼の正体を考えることで、隠された鬼の本来の姿や、物語の隠された姿を想像してみたい。

 

●「桃太郎」の鬼(山賊・海賊・盗賊)

 鬼が登場する昔話の代表の一つが「桃太郎」だろう。「桃太郎」の鬼退治の部分はおおよそ、鬼ヶ島の鬼たちが人々を苦しめているのを桃太郎が知り、家来と共に鬼を退治して、鬼のお宝を手に入れるという勧善懲悪物である。悪さをする鬼を退治して、宝物を手に入れるという点では「一寸法師」と共通しているが、まず「桃太郎」の鬼で注目したいのは、鬼が悪者であること、鬼が、鬼ヶ島に住んでいること、そして鬼がお宝を持っていることである。日本には古くから丑寅(鬼門)の方角に鬼が住む鬼ヶ島が存在する、という伝承が信じられて来たが、今回は純粋に島に住む悪役として考えていきたい。そしてもし「桃太郎」の鬼が本来は違う正体を持っていとしたら、それはどのようなものだろうか。島に住む=海からやって来て、人に悪さをし、お宝(金品)を持っており、正義の味方に成敗される…こうして考えてみると、「桃太郎」の鬼の正体は、かつての海賊だったのではないだろうか。そう考えると、桃太郎ゆかりの地が岡山や香川といった瀬戸内海に面していることも興味深い。瀬戸内海は古代から強力な海賊が勢力をふるった地域である。「一寸法師」でも同じように、都にやって来ては人に悪さをし、正義の味方に退治されて、宝(金品)を落としていく…と見ていくと、その正体は盗賊、もしくは山から降りてきた山賊そのものではないだろうか。もちろん桃太郎の成立はこんな単純なものではなく、実際にあった歴史的対立や戦いを元としていたり、桃太郎についても無名の若者が家来を得て鬼を退治することで武士としての名声を得る立身出世の物語とする見方もある(この場合の鬼の正体は、海賊というより敵対水軍といったところだろうか)。しかし昔話として農村の親や子どものあいだで語られる際、その「鬼」の言葉の裏側には、いつ海からやって来て自分たちの生活を脅かすかもしれない、海賊への恐怖のイメージが隠れていたのではないだろうか。

 

●「うりこひめとあまのじゃく」の鬼(花嫁略奪・婿奪い・悪戯者)

 一方、「うりこひめとあまのじゃく」の昔話に見られるあまのじゃく(天邪鬼)=鬼は、「桃太郎」や「一寸法師」に出てくる鬼とはタイプが異なるが、多くの場合退治される悪者といった点では共通している。元々「うりこひめ」は地域によって様々なパターンが存在し、その顛末も異なるが、今回は私が聞き育った「ウリから産まれた瓜子姫は美しい姫に成長し、その噂を聞いたお殿様に見初められてめでたく結婚することとなった。だがそれを聞きつけたあまのじゃくが瓜子姫を騙して木の上にくくりつけ、自分がきれいな着物をかぶって瓜子姫に成りすまし、迎えの籠に乗ってしまう。しかし籠が木の下を通るとき、お殿様は鳥のおしゃべりを聞いてすべてに気付き、あまのじゃくを殺して瓜子姫を助け、無事に結婚する」というストーリーを見ていこうと思う。

 この「うりこひめ」で私が注目するのは、お殿様に見初められた瓜子姫をあまのじゃくが騙して隠してしまうという点、あまのじゃくが瓜子姫になりすまして籠に乗るという点、そして悪戯がばれて殺されてしまうという点である。特に気になるのが、お殿様に見初められた瓜子姫にあまのじゃくが悪戯をするということはまだ分かるが、どうしてあまのじゃくは瓜子姫のふりをして籠に乗ったのだろうか。きれいな着物をかぶっていれば、そのまま瓜子姫になりすまして贅沢な暮らしができると思ったのだろうか。現代の絵本でもよく描かれるこのなりすましシーンでの「あまのじゃく」は、肌の色も違ったり角がはえていたりと、まさしく子鬼のような姿で描かれることがほとんどである。そのため私も、あまのじゃくが瓜子姫の変わりに籠に乗っている場面を見て「なんでお殿様はこんな姿のあまのじゃくに気付かないんだろう」と滑稽さを感じただけだったが、もしあまのじゃくの姿が鬼の姿ではなく、人間の女性の姿だったとしたらどうだろう。おそらく籠から降りてきれいな着物を脱いだとしても、「ん?聞いた噂の姫とはちょっと違うようだけど…」と思っても、それが瓜子姫ではないと気付くことは難しいのではないだろうか。そしてまた疑問に感じたのが、ほとんどの場合あまのじゃくが仕返しに殺されてしまうという点である。子ども心に「ただ瓜子姫を隠して、なりすましただけなのに、あまのじゃくを殺してしまうのはお殿様もやりすぎなんじゃないか?」と疑問に思ったが、このあまのじゃくのいたずらがただのいたずらではなく、瓜子姫の結婚を邪魔して「自分がお殿様と結婚しようとする者」の策略だったとしたら、話は違ってくるのかもしれない。また、あまのじゃくの目的が「自分が瓜子姫になりすます」ことではなく「瓜子姫を騙して隠す」ことにあった場合、お殿様にとってあまのじゃくは、花嫁の略奪者という立派な敵だったのかもしれない。通常「うりこひめ」のあまのじゃくは、ただのいたずら者として扱われていることが多いが、このようにいくつかの点にしぼって見た場合、あまのじゃくという鬼はただのいたずら者ではなく、その裏にはかつて時代の有力者の花嫁を争った女性の姿や、あるいはうつくしい花嫁の略奪者としての姿が隠されているのかもしれない。

 

●「鬼婆と小僧」(狂人・異常者・子捨て)

 通常の鬼退治の話に比べ、鬼婆や般若の昔話としてまとまっているものは数が少ないが、鬼女も昔話に登場する鬼の一つである。「鬼婆と小僧」のおおまかなストーリーは以下の通りである。

 

  ある時小坊さんが和尚様のお使いで山道を歩いていると、優しそうなおばあさんがいた。日も暮れかけており、小坊さんはおばあさんに誘われるまま、おばあさんの家に泊まることになったが、夜中にふと目を覚ましてみると、あの優しそうだったおばあさんが鬼の形相で包丁を研いでいる。おばあさんの正体が鬼婆だと気付いた小坊さんは、和尚様からもらったお札の力を借りてなんとか寺まで逃げてきたが、鬼婆も追ってやって来た。和尚様は小坊さんを奥に隠し、鬼婆に化け比べをしようと持ちかけて、豆に化けた鬼婆を食べてしまった。

 

 今回注目するのは、鬼婆が元はおばあさんだった点。そして鬼婆が山に一人で住んでいるらしいという点、鬼婆が食べたがっているのは大人の和尚様ではなく子どもの小坊さんであるという点、そして主人公がただの村の子どもではなく小坊さんであるという点である。まず、おばあさんははじめから鬼として登場したのではなく、登場した時はやさしそうな普通のおばあさんであった。しかし物語の進行と共に、おばあさんの正体が鬼だと判明する。「鬼婆と小僧」の鬼は先ほど扱った作品とは異なり、鬼であると同時に人の姿をしているが、ではなぜ人の姿をしていたはずのおばあさんが鬼となったのだろうか。今回は鬼の正体ではなく、おばあさんが鬼となった(鬼と見なされた)理由を考えてみたい。

現代とは異なり、昔話の世界の山とは本来人間の住む領域ではなく、化け物や神霊の住む未知の世界だった。稀に狩人や木こりが住むことはあっても、女性がたった一人で山に住んでいるということはまず在り得ず、異常なことであった。つまり女性が山で一人暮らしをするということは狂気じみたことであり、すでにそこには鬼に通じる何かしらの異端性があると考えられる。次に鬼婆が小坊を食べようとしたことについて見てみると、多くの場合、「鬼」とは人に害をなし、そして人を食べるものだが、鬼婆といった鬼女の場合は、小さな子ども(少年)を好んで食べる傾向がある。通常の(男の)鬼は若い女を好んで食べるとされるが、なぜ鬼女は子どもを好むのか。この鬼の「好み」はそのまま男の鬼と女の鬼といった性差から来るものだろうが、「好み」には鬼の正体もまた深く関わっているのではないだろうか。例えば「桃太郎」や「一寸法師」のように鬼の正体を海賊や山賊と見なした場合、人々の金品と共に女性をさらっていくのもごく自然な流れであり、特に若くて美しい女性を好むのは、妖怪にも通じる事だがまさしく当然のことだろう。だが鬼婆が好むのは若く美しい男というわけではなく、小さな子どもである。ここから考えられることは、鬼婆の正体とはただの女ではなく、母親なのではないだろうか。ここで鬼婆の「武器」に注目してみたい。鬼の武器というと金棒などが一番に思い浮かぶが、男の鬼が人を食べるときも、人の肉を包丁で切り取って料理した、という話は聞かない。鬼婆の持つ包丁は、女の、それも昔話が語られる家庭の中において母親の持つべき道具である。鬼婆が子どもを好んで食べようとすることには、男性が若く美しい女性を本能的に求めることにも似た、母親が子どもを求める姿が隠されているのではないだろうか。山奥に女性がいる(行く)いう異端性、子どもを食べよう(殺そう)とする母親、そして子どもは寺に住む小坊であるということを繋ぎ合わせて考えると、「鬼婆と小僧」の鬼の正体とは、子を捨てる母親の姿なのではないだろうか。当然、人が鬼となるには様々な理由がある。時には山奥に一人住む女性の異端性から鬼と呼ばれ、時には子を山に捨てる親の姿を鬼と呼んだかもしれない。あるいは寺に預けられた子どもが、自分を捨てた母親に鬼の姿を重ねて恨んだのかもしれない。しかし総じて見てみると、「鬼婆と小僧」の昔話にはかつての子捨ての風習と、それでも子を求める母親という鬼の姿が隠されているのではないだろうか。

 

○まとめ

 以上、鬼の石段と、大きく三つの昔話を例にあげて鬼の正体を探ってみたが、鬼には、そして昔話には、かつて本当に生きていた人間の姿やならず者たちの悪行、あるいは人々の風習が染み込んでいるのではないのかと感じた。それは実際の事件や物事から物語が生まれたからかもしれないし、様々な家庭で口承され、伝えられていくうちに、より身近な事件や恐怖する事物が付け加えられ、あるいは塗り替えられていったのかもしれない。いずれにしろ昔話の鬼の正体とは、空想の生き物などではなく、人々が身近に感じた犯罪や災害、時に人々が行う恐ろしい風習といった、恐怖そのものだったのではないだろうか。

そして鬼が多く物語に出てくる理由は、鬼が人々の持つ恐怖のイメージであると同時に、同じく「鬼」という言葉が広い多義性を持っていたからとも考えられる。「鬼」という漢字には地上の荒ぶる神、妖怪、放逐された者や社会からの逸脱者、見慣れない異人、心無い非情な人など、まさしく多様な意味や存在が含まれている。その多くは先ほど述べたような恐怖のイメージそのものであるが、鬼という言葉には恐怖だけでは説明のできない、どこか不気味なもの、よくわからないが異常なもの、といったイメージが潜んでいる。実際に多くの日本人は昔話や寝物語の中で鬼に出会い、鬼の話に親しんでいるが、では鬼とは何者なのか、鬼の正体は何なのか、と問われてすぐに答えられる人は少ないだろう。だが鬼の正体はこれだ、と限定されていないからこそ、人々の心の中で鬼はより不気味で、自分には理解できない恐ろしい存在へと形作られていくのではないだろうか。この正体を持たない、人々の心の中にのみ住む鬼こそが、人々に恐れながらも親しまれ、数多くの物語に鬼が登場する答えなのかもしれない。

 

 

 

 

 

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